超長文note「福山雅治でいいのか」作者が伝えたかったこと 「イケメンと下ネタ」への強烈な違和感

こんな記事です:超長文note「福山雅治でいいのか」が話題に。/“イケメンと下ネタ”への違和感から生まれた6,000字の文章。/作者が語る、書かずにいられなかった理由。
アトヨミ編集部 2025.10.17
誰でも

殺伐としたネットの中にあって、時折、自分の世界を広げてくれる記事に出会える瞬間がある。2025年8月20日、「福山雅治でいいのか」と題したnoteの記事が瞬く間にネットを駆け巡りました。「名文」「圧倒的熱量」「一気に読んだ」などなど、福山氏のファンも、そうではない人も、それぞれの言葉で記事を称えるコメントを寄せました。この6,000文字を超える記事は何に突き動かされて生まれたのか。作者の紫藤春香(はるちん)さんに話を聞きました。

下ネタに矮小化させていいのか

現在30代の紫藤さんは、中学生の頃から福山氏のファンで、年越しライブも10回以上は鑑賞している鑑賞している古参です。そんな紫藤さんが今回の記事を書きはじめたのは深夜1時すぎ。「その日の勢いだった」と振り返ります。

いつもなら、一回、落ち着いて読み直す時間を作っているそうですが、「寝かせたら恥ずかしくて出せない」と思い、3時間かけて書き終えた直後の午前3時52分にアップ。そして、お昼に起きた時には「すごいことになっていた」そうです。

紫藤春香さん

紫藤春香さん

記事を書こうと思ったきっかけは「不適切な会合」への出席を伝える報道です。中居正広氏による元フジテレビアナウンサーの女性への性加害を巡る問題を受けて設置された第三者委員会がまとめた調査報告書で「不適切な会合」と指摘された場に、福山氏が出席したことが判明。週刊誌の取材に福山氏自身も事実を認めたことから様々な情報が飛び交う事態になっていました。

人気俳優で歌手でもある福山氏ですが、かつて自身のラジオ番組で披露していた「下ネタトーク」は彼の個性の一つとして受け止められていました。そんな過去の言動と絡められながら、誰もが認める「イケメン」として圧倒的な存在だった福山氏が直面した集中砲火。そこに紫藤さんは強い違和感を覚えたといいます。

「矮小化されてしまった。『福山さんくらいのイケメンであっても飲み会で下ネタとか言っちゃいけない時代になった』みたいに議論がスライドしていた。あの問題の根幹は、フジテレビが女性アナウンサーを大御所芸能人の接待要員にしていたこと、それに福山雅治のようなタレントが甘んじていたことだったはず。その問題がすり替えられてしまっているのは間違っていると思った」

福山氏が担わされてきたもの

記事が訴えるのは、福山氏が背負わされてきたものの大きさです。令和の価値観では否定される平成のノリ。その暗部を福山氏一人にかぶせることについて、記事では「福山、大丈夫ですか。荷が重くありませんか」と問いかけます。

紅白歌合戦のトリ、大河ドラマの主役。それら芸能人として誰もが羨む実績に対して紫藤さんは「福山雅治に『国民的歌手』は荷が重い」「演技は音楽よりも明らかに、どちらかというとできない部類に入る」と評します。一見、辛口のように見える筆致ですが、そこには「行ったり来たりを正確に出したかった」という思いがあったといいます。

「今は全肯定か全否定しか許されない雰囲気がある。でも、実際は、どっちかだけじゃない。好きだけど、腐しながら楽しんだっていい」

紫藤さんが危惧するのは「推し」という言葉に象徴される現代のファンコミュニティの極端さです。

「今は事務所やタレント本人が公式として直接発信する時代になった。そうなると、ファンは公式のメッセージに自分の体を預けてしまう。これだと、何かスキャンダルが起きた時、推す側も推される側も、ものすごいダメージを受けてしまう。全肯定の推しは、全否定の攻撃する側にもなってしまうから」

圧倒的熱量が生む辛辣表現

それにしても、記事には歯に衣を着せぬ表現が次々と出てきます。

福山氏が歌う名曲のカバーを通して音楽への興味が広がった結果、「(福山氏に)ずば抜けた音楽的才能やカリスマがあるわけではない」ことがわかったと書く。

さらには主演をつとめた大河ドラマ「龍馬伝」について「香川照之や伊勢谷友介、田中泯ら助演達の圧巻のパフォーマンスで助けられつつ、あまりに微妙すぎる土佐弁と演技でこなし」とバッサリ。

しかし、不思議と嫌な感じはしません。なぜなら、そこには圧倒的な熱量があるから。記事に書き連ねられているのは、自分の記憶と体験から呼び起こされた生の情報。おそらく検索などしなくても勝手にあふれ出てくるのでしょう。とめどない福山氏への思いに包まれているからこそ、厳しめの言葉であっても落ち着いて受け止められます。

紫藤さん自身も書きながら「自分がこんなに福山氏に関心があった」ことを再発見したそうです。

「まあ、福山さんについてだけは、本当にずっと見ていたので。だから、一部分だけ読んでわかった気になるようなものは書きたくなかった。結果、生まれた記事は、福山さんを擁護したいのか、批判したいのかわからないし、そもそもすごく長いものになってしまった」

意識したのは「行ったり来たりしている自分の気持ちをそのまま出すこと」だったという紫藤さん。書いている時は、自分のnoteのフォロワーや友達が読むくらいだと思っていたのがnoteの「スキ」の数が1万8千を超える反響に。

「たくさんの人が読んでくれただけでなく感想も寄せてくれてびっくりした。みんなこんな長い文章を読む体力と時間があったんだっていう驚きがあった」

自分たちも加害者だった

福山氏の「不適切な会食」を通して、紫藤さんが感じたのが、今とは違う価値基準の時代に起きた行為に向き合うことの難しさです。

「みんな行くと思うんですよ、あの時代に福山さんが行くような飲み会があったら。それが平成という時代だった。週刊誌報道をきっかけに福山さんを非難した人たちもそんな平成を生きていたはず。私もそうです。だから自分が加害者だったことを書きたかった」

書くことで「忘れてしまうこと」への抵抗を試みたという紫藤さん。

「あの時って、みんなそれを楽しんでいた。平成も昭和もそう。戦争の記憶のように、自分たちが加害者だったことを簡単に記憶喪失してしまう」

記事の中で紫藤さんは「不適切な会合」で「場を盛り上げようと下ネタを連発」した福山氏の行為を「よくはないし、キモくはある」と断罪します。と同時に「福山の顔が良すぎるせいで、だれも問題の真ん中を見つめることができない」と警鐘を鳴らします。

「もちろん福山氏にも責任はある。同時にそこには、女性への扱いや、人を傷つけるような笑いを楽しむ自分たちがいた。それを振り返らず、反省もせず、ただ福山さんを槍玉にあげるようなことをしていたら、似たような間違いをずっと繰り返してしまう」

土下座で済む範囲には

紫藤さんが強調するのが「芸能人も政治家も、100%完璧な人なんていない。だから、少しでもマシな方を選ぶしかない」ことです。

「選ぶためには知らないといけない。知るために誰かと話す。話してみると、意外な人が政治に興味を持っていたり、NISAとかに詳しかったりする。そうやってインプットしないとちゃんとした判断ができない」

神妙な顔でずっと福山雅治の話をしている紫藤さんと奥山(写真左)

神妙な顔でずっと福山雅治の話をしている紫藤さんと奥山(写真左)

今、紫藤さんが気がかりなのが誰かと話す際の「心理的安全性」を互いに感じられるラインが見えにくいこと。

「突っ込んだ話をしてもいいのか。意見が違ったら怒られるのではないか。そんな心配が重なって、結局、話をするのをやめてしまう」

紫藤さんの記事は、福山氏を100%擁護しているわけではありません。そこだけ読むとファンは複雑な気持ちになりそうですが「みんな推しへの批判に怒りすぎでは?」と紫藤さんは投げかけます。

「もちろん、自分まで傷つけられたように思ってしまうのはわかる。
わかるんだけど、それでは会話が成立しない。そんな理由で会話ができなかったら、マシな方を選ぶ情報も得られない。この辺までは話せるというラインを探る。どんな表現だと怒りを呼び起こしてしまうのか、記事を通して心理的安全性の尺度を知りたかった」

その言葉通り最終盤にさしかかっても紫藤さんは手加減しません。福山氏を「顔の良さと勤勉さでバブル的に膨れ上がった」と論評した上で、「いつどのタイミングで国民の総意を得たのかもわからないまま、小さな蓄積で今の地位に辿り着いてしまった」と結論づけます。

「エゴサをしているらしいので、万が一、本人の目にとまった時も土下座で済む範囲にはしようと思いました」

記事はそんな紫藤さんの本音ともいえる次の言葉で締めくくられます。

「偶像を崇拝することの尊さとしょうもなさをすべて教えてくれた人。だからこそ私がファンクラブに入会するほど熱を上げるのは、恐らく彼が最初で最後の芸能人なのだ」

(奥山晶二郎)

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